JNICからJPNICへ

商用インターネット開始前夜、その準備というか整理というか様々な問題があった。その代表的なものが、ドメイン名の割り当てと、IPアドレスの割り当てである。

ドメイン名の割り当て

ドメイン名の割り当ては当時のJUNETの運営状況の問題と関係している。

JUNETは、 junet-adminというボランティア・グループによって新規参加手続きが処理されていた。 UUCPのメリットは、 特別な設備を必要としない、 UNIXでは一般的なttyインターフェイスと公衆回線を使って、 モデムでダイヤルアップ接続ができることにある。 つまり、 手軽にネットワークへ接続できるということだ。 ワークステーションの低価格化と普及は、 ネットワークへの参加を容易にした。JUNETのことは、1987年12月にアスキー出版局から出された、『UNIXワークステーションⅠ』 (村井純、砂原秀樹、横手靖彦著)という本に書かれていて、参加を望む話が、NIFTY-ServeのUNIXフォーラムなどでも聞こえていた。

しかし、当時のJUNETはあくまで実験ネットワークであり、既存参加組織との関係の中で紹介をする、曖昧なものだった。上記の本であったり、JUNET利用の手引き(1988年)など、有名になれば参加希望が増えるのは当然のことでもあった。

しかし、仮に接続してくれる相手が見つかっても、参加には junet-admin というグループによる参加の手続きが必要となった。

私自身は東大の学内問題であったのだが、教養学部からの参加は始めてだった。この辺りは、東大の学内ネットワークの構築で詳しく書く。最初は、UUCPだった。

また、私もUUCPでのいくつかの下流組織の面倒を見た。その代表が、prug.or.jp (Packet Radio User Group) で、力武健次君らが行っているアマチュア無線を利用したネットワークだった。

Junet-adminの手続きは、 ドメイン名の承認から接続完了まで、 平均3カ月を超えることが珍しくなくなってきた。 junet-adminの事務処理も、 大学の研究者などのボランティア運営に頼っており、 単純に数が増加したことだけでも、 滞る要素になったことがその理由だ。しかし、実はそれだけではなく、ドメイン名の割り当て承認も junet-admin が行っており、はっきりと明文化されたルールがなく、よく知られた名前や、3文字のドメインなどには難色が示され、長く時間がかかる原因にもなったともいわれている。

ドメイン名の割り当ては、数の増加と割当てを希望する組織の多様化によって、 ドメイン名の妥当性などの規準を判断するのが、このグループにとっては重荷になっていた。

それに、実際にはバックボーンネットワークともいえる WIDEがIP化し、 日本のネットワークの中心的な管理がIPネットワークに移っていたにもかかわらず、 その構造変化に対して、 適切に追従できなかったと考えられる。

すなわち、 すでにJUNETの定義が曖昧になっていたわけだ。これが後の JUNET協会の設立でも問題になったことだが、UUCPで接続されたネットワークの物理的実体は、 IPネットワークにつながり、 モデムポートを用意したサイトを根元とし、 UUCPで構成されるネットワークの木が、 IPネットワークのあちこちにぶら下がっている構造になっていた。

IPネットワークに参加している組織は、 WIDE、TISN、JAINのどれかに属すことが比較的はっきりしていた。 そして、 WIDE内でのコネクティビティはWIDEだけで得られ、 ほかのネットワークと相互接続をしている。その相互接続は、IPの技術で管理されている。

しかし、 JUNETをUUCPでつながった木であるとすると、それはばらばらにIPネットワークにくっついた宿り木のようなもので、 IPネットワークの存在なしには接続性が得られない。 また歴史的な経緯により、 JUNET = jpドメイン全体という認識も多く、 運営や利用について議論する際に混乱の生じる原因となり始めた。

もう一つが、 fjニュースグループ = JUNETというイメージが根強かったことも挙げられる。 UNIX Magazineでは、「JUNET便り」というタイトルで、吉田茂樹氏(当時 CSK→東大生産研、現:情報科学芸術大学院大学教授、学長)がfj ニュースのことを連載していた。吉田氏は、JUNET協会の設立などにも協力し、その経緯の中で、連載のタイトルを、「NetNews便り」に改めた。

USENETがそうであるように、 NetNewsは、 ネットワークのアプリケーションとしてたいへん魅力のあるもので、 ネットワークに新たに参加した人の多くが惹きつけられた。 しかし、 すでに参加しているサイトとの接続を確立すれば、 参加できるという特性と、 ドメインアドレスの組織的管理とは馴染まないものである。

このあたりが当時のアメリカのユーザのアドレスを見るとわかる。日本のように整然としたドメイン形式のアドレスではなく、UUCPの ! (bang と呼んでいた) を使ったいわゆるソースルーティングのアドレスを表記していることも多かった。よく知られた UUCP ホストからの経路を記載して表現する。日本では、ccut がその役割をしていたので、UUCP形式だと、その当時のアドレスは、私の場合、..!ccut!komaba!shin という形になる。 NetNews こそが、文字通りバケツリレーであった。

JUNETは、 運用ネットワークとしての役割をはたすことが期待されたにもかかわらず、 運用規約、利用規約はけっきょく曖昧なままでした。 そこには運営がボランティアということから起こりうる問題として、 判断を必要とする場面では、 無難で否定的な結論を導きやすいということもあった。

結局JUNETは、 規模、 内容が変化しているのにもかかわらず、 それにふさわしい運営形態に移行できないという事実が顕在化した。JUNETは、JUNET協会へ、ドメイン名管理は、JNICへということになった。

IPアドレスの管理

一方、IPアドレスの管理はどうだったかというと、JNIC移行直前は、ネットワークアドレス調整委員会(実態は、慶応大学の村井研究室)で行われていた。 そもそも東大でも、一番最初の学内ネットワークの工学部LANでは、1.0.0.0/8 を使用していた。それを、ある日一斉に、130.69 を使用するように切り替えた。 日本の企業でもいくつかの企業については、直接、米国のSRI NICからの割り当てを受けたケースもある。

WIDE バックボーンの構築がおこなわれ、WIDEと、TISN がハワイ大学経由で接続することになることが決まったころ、日本に 133.X/16 のアドレスが割り当てられ、日本の大学に割り当てられた。大阪大学が、133.1/16である。このあたりは、ネットワークアドレス調整委員会で行っていたものだ。

この後、日本の大学には、ほぼ1つずつクラスB (/16) のアドレスの割り当てが行われた。例えば、多摩大学にも、160.237/16 が割り当てられている。

しかし、これも割り当て基準が、明確に決められていたわけではなく、ドメイン名と同様にJNICで行うことになった。

日本ネットワークインフォメーションセンター(JNIC/JPNIC)

日本語名では同じだが、最初は任意団体JNICとして設立された。

1991年の研究ネットワーク連合委員会(JCRN)の技術分科会で続けられてきた 国内インターネットの諸問題についての検討から、 緊急性の高い課題として、 ネットワークインフォメーションセンター(NIC)の必要性が指摘された。 これまでの各ネットワーク組織の有志によるボランタリーな体制では限界がみえていて、 とくに、 ドメイン名の割当ておよび管理の渋滞がネットワークの発展を阻害し始めた。 そのような状況のなかで、 各ネットワーク・プロジェクトが協力して、 1991年12月1日、 業務を開始した。

JNICの目的

組織としては、当初こそ任意団体であったものの、実務は、この時期に構築された。

JNICは、 計算機ネットワーク全体で共有すべき資源、 たとえば、 JPドメインやIPアドレスの割当てや管理などの業務を担当し、 計算機ネットワークの速やかな発展への貢献を目的とする。 また、 一般の利用者に対しても、 計算機ネットワーク全体の情報窓口として機能するものである。 散在する各ネットワークに関わる情報を収集・整理した情報を国内外に提供して、 計算機ネットワーク関係者の便宜を図るとともに、計算機ネットワークの現状に対する理解を深めること役割をした。

ドメイン名のように、 本来ネットワーク・プロジェクトと独立したものは共通のセンターで管理するべきである。 たとえば、 ある研究所で用いているメールアドレスを世界的に通用させようとするなら、 調整された統一的な機構で割当てや管理をおこなう必要があった。 また、 各ネットワークの情報を収集しておくことで、 管理者の連絡先を教えてくれたり、 欲しい文書を送り返してくれたり、 適切な問合せ先を教えてくれたりというときの問合せ先となることをJNICは目指して、仕事をした。

JNICからJPNICへ

より安定したサービスを提供するため、 社団法人を設立することを準備し、1993年の4月から、 ネットワーク・プロジェクト、 地域ネットワーク、 コマーシャル・ネットワークを会員とし、会費の納入を受け、名称をJPNICと改めた。JPNICは、1997年3月31日に社団法人化した。

当時のJPNICの業務は、JPドメインネームの割当て、IPアドレスの割当て、JPネームサーバーの運用、JPNICデータベースの管理であった。

JNIC/JPNICでは、最初私は、ドメイン名のワーキンググループを担当した。ドメイン名の割り当てルールは、極めて明確なもので、First Come, First Serve であり、単純な早いもの勝ちとなった。一組織1ドメイン名だけが制約事項だったと思う。問題となるのは、使う予定がないのに、ドメイン名を押さえておくというのをどう防ぐかということであった。当時は、個人でのドメイン名取得はまだできなかったので、一組織1ドメインで、ドメイン名の譲渡を禁止するということだけで十分だったと思う。これにより、3文字ドメインだろうとなんだろうと取得できるようになった。業務としては、おおむね1週間でドメイン名が承認された。ドメイン名は、属性型のドメインだけで、当初co.jp (会社)、ac.jp (大学、教育機関)、or.jp (会社以外の法人、団体)、ad.jp (ネットワーク管理組織)のみであった。その後、ネットワークサービスの、ne.jp が加わった。また、その前の第三レベル(固有名)については、属性が異なっても同じものは認めない(第三レベルの一意性)が適用されていたが、これは1996年12月に撤廃された。これにより、keio.ac.jp (慶應義塾大学)、keio.co.jp (京王電鉄株式会社)が可能になった。

その後、JPNIC になり会費を徴収するようになると、当然のことながら、各ドメインごとに何らかの費用を徴収することになる。後に、ドメイン名ごとに申請手数料、維持管理手数料が設定されることになった。この維持管理料が設定される以前には、ドメインを取得して、使用しない(接続しない)という場合には、無効にするというルールが存在した。

次に、私は、IPアドレス割り当てグループの委員長をした。IIJがIP接続の事業を開始するころでもあった。このころアメリカではすでに商用インターネット会社が接続を行っており、急速に拡大していた。それに伴い、IPアドレスを今までのように割り当てを行っていては、早晩なくなってしまうのではないかという議論が行われ、従来のようにクラスBアドレスの大盤振る舞いはできなくなった。そこで割り当て基準を厳しくしていく必要があった。私は務めたのはJPNIC法人化直前の1年間だけだったとおもう。そのあとは同じIIJの浅羽登志也氏に引き継いだ。このあと、CIDR (Classless Inter-Domain Routing) の導入が行われた。

問題は、このころの、JNIC/JPNIC の委員会は、月に1回くらいのペースで行われていたと思われるが、ともかく長かった。ほぼ1日中かかったような気がする。それだけ検討すべきことが多かったこと、対応すべき事案も多かったということもあるが、こうした公開ルール作りを若い技術者、研究者の集団だけで行うこと自体にも限界が来ていた。1994年というと一番年上の村井氏でもまだ、40前だった。

そこで、誰か弁護士の知り合いはいないかという話になった。そこで、ちょうど私が通産省の委員会で知り合いになった室町正実弁護士(現:東京丸の内法律事務所)に声をかけた。室町弁護士も最初は戸惑われたようだが、その後今に至るまで、JPNIC, JPRS で顧問弁護士を務めている。

最終更新日: $Date: 2016-10-09 21:12:36+09 $

Copyright (c) 2008-2010 by Shin Yoshimura. All rights reserved.